約300年続くみかん栽培の歴史。

小田原市明沢地区でのみかん栽培の歴史は、約300年近くになります。江戸中期の豪商、紀伊国屋文左衛門(~1734)が紀州より、みかんの苗を運んできた事から始まったと伝わり、みかんの北限の産地として知られていました。

この地区には推定樹齢300歳(2012年玉川大学山岡好夫先生による年輪鑑定)のみかんの原木が現存していました。(秋澤敬久氏宅所有)

長い年月をかけて、品種改良や栽培技術の向上によって、今でも美味しいみかんの産地として生産しています。

1940年代の戦時中はみかんを伐って、食糧増産を命じられるも、「樹は一日にして成らず。50年、100年単位で生きるもの」として地域一丸として、何とか切らずに食糧増産に励み柑橘産業を守りました。

1950-60年代、産地の利点を生かし、果実の持っている糖と酸のバランスと、出荷調整するための、土蔵熟成による長期保存技術に力を入れ、みかん専用の土蔵を毎年のように建立。また柑橘産業振興、効率化のために地域のみんなと力を合わせ農道の拡張とコンクリート舗装整備に尽力し産地の礎を担ってきました。

戦後の日本の農業史は、化学肥料と農薬の進歩、生産技術の向上によって、生産性は飛躍的に伸びたものの貿易摩擦により1964年レモンの自由化から始まり、1968年のみかんの大暴落、柑橘および輸入果実原料の自由化によって国内産業と農地利用、農村の景観も大きく変動することとなりました。

1970年代までみかん専業をし、産地特性を活かし海外輸出もできるみかんも生産していました。その頃より輸入農産物の残留農薬や、環境への負荷の影響も懸念されるようになり、あきさわ園では卸売専門から一般消費者への直売を開始し、お客様と対話しながらの生産、無農薬での栽培を試行錯誤した結果、極力農薬を使わず、安心して丸ごと食べられる、みかんをはじめとした季節の農産物、ライフスタイルに寄り添った生産と販売が始まりました。

1970-80年代、価格の暴落も相まって、食味と品質向上に向け在来品種から新品種に改植を進め農協等への共同出荷を辞め、園内道の整備による効率化を促進。生産物は秋沢園のブランドで市場出荷を開始。それと同時に、フルーツと季節の野菜は鎌倉・藤沢地域の消費者団体の会員様向けの産直販売も開始しました。

また、 柑橘・ブルーベリー・キウイフルーツ・オリーブ・緑化樹木等の苗木生産も手掛けるようになり、いいものを作ろうと研鑽し、品評会では数々の賞を頂くようになりました。

1980年代から、農家だからこそできるジャムの生産をスタート。

タイやフィリピン、インドネシアなど東南アジア、国内学生の農業研修生も受け入れを開始し、食と農、国際的な食の安定と生産の現場教育、若手の育成をスタート。

2005年頃より、加工部門の強化を図り、ベリー類等の農産物生産強化。旬の数量限定ジャム・コンフィチュールも年間約18種類、ピクルス等も生産開始。

2013年頃より食と農の現場を体感してもらう、農業体験・ワークショップ、援農ボランティア等の受入れをスタート。

また、地場産業の連携を目指し、地域で産業廃棄物として焼却処分されていた剪定枝、カカオ、コーヒー粕や麻袋、牛糞堆肥、ビール酵母等「有機物資源の堆肥化等再利用の循環栽培」の取組を開始。

2016年農新水産省 6次産業化認定事業者に小田原第1号で認定される。未利用農産物、規格外品、フードロス、地場産品の魅力と産業の持続可能性の追求を目指して商品開発に注力。

2019年、日本伝統工法(みかんの土蔵と同じ造り、土壁)の加工所を竣工。ワークショップ形式でフリースクール、大学生、友人、取引先、家族、職人大工さん等、多くの方々と共にみんなで造りました。材料は基本自前地場産。自園田んぼの粘土に稲わらをすき込み約2年発酵させ、真壁の材には、新月伐採で伐採した真竹と、地場箱根の木材を使用。釘や金物を使わない木と木を組み合わせ、地域自然を活かした造りです。過去から未来へ“想い”をつなぎ、未来への価値あるものの生産と地場産業発展を願い建造しました。清涼飲料水製造業、菓子製造業、瓶詰食品製造業、漬物製造業、野菜果物販売業を取得。

地域の歴史、文化環境があるからこそ今があり、未来につながる。

先人たちの想いを胸に、2.3.4.5世代未来の子供たちが食と農の現場より夢と希望を持ち挑戦できる環境を創造できるよう、「欲しい未来は自分たちで創造する」をコンセプトに、時代に合わせ常に挑戦して参ります。